リード──令和期の正当事由判例137件が示す借家実務の転換点
法務省が公表した「借地借家法の更新拒絶等要件に関する調査研究報告書」は、令和元年5月から令和6年3月までの借家関係裁判例137件を網羅的に分析した初の大規模調査である。注目すべきは、正当事由の具備が認められた割合が約53.3%にとどまり、賃貸人側にとって決して楽観できない数字が示された点だ。さらに、明渡しが認められた73件のうち居住用建物は26件(約35.6%)にとどまり、事業用賃貸借のほうが明渡しが認容されやすい傾向も浮かび上がった。
本稿では、この報告書を起点に、借地借家法第28条の正当事由要件の最新解釈動向を整理し、耐震不足を理由とする建替え需要の高まり、立退料の算定実務、さらに2022年・2024年の宅建業法改正との交錯を、不動産投資家・宅建士・弁護士など実務家の視点で深掘りする。相続不動産の売却における税制上の留意点にも触れ、「明日の実務に使える」情報を提供したい。
背景・現状分析──なぜ今、正当事由が再注目されるのか
老朽化ストックの急増と耐震問題
国土交通省の住宅・土地統計調査(2023年)によれば、1981年(昭和56年)の新耐震基準施行前に建築された住宅ストックは約700万戸に上る。旧耐震基準の建物は、首都直下地震や南海トラフ地震への備えが社会的課題となるなか、建替えの必要性が年々高まっている。しかし、借家人がいる場合、賃貸人が一方的に契約を終了させることはできない。借地借家法第26条第1項に基づく更新拒絶、または同法第27条第1項に基づく解約申入れには、いずれも同法第28条が定める「正当事由」が必要となる。
法務省報告書の位置づけ
法務省の報告書は、借地借家法制の見直し議論の基礎資料として作成されたものである。法制審議会での議論が今後本格化する可能性があり、正当事由の判断基準が立法的に見直される余地もある。不動産投資家にとっては、保有物件の建替え計画や出口戦略に直結するテーマであり、弁護士・司法書士にとっては訴訟戦略の根幹に関わる重要情報である。
宅建業法改正の文脈
一方、宅地建物取引業法は2022年5月のデジタル化改正(押印廃止・電磁的方法による書面交付の解禁)を経て、実務のオンライン化が急速に進んでいる。重要事項説明書(35条書面)や契約書(37条書面)の電子交付が可能となったことで、借家契約の締結・更新プロセス自体が変容しつつある。正当事由をめぐる紛争予防の観点から、重要事項説明における建物の耐震性能や将来の建替え計画の説明がこれまで以上に重視される局面が増えている。
相続不動産との交錯
相続により取得した賃貸不動産を売却・建替えしようとする場面では、正当事由の問題と相続税制の問題が同時に発生する。被相続人が長年賃貸していた建物について、相続人が「自己使用の必要性」を主張して明渡しを求めるケースは、報告書の分析対象にも多数含まれている。小規模宅地等の特例(租税特別措置法第69条の4)の適用要件との整合性も、実務上しばしば論点となる。
法令・判例解説──借地借家法第28条の正当事由をめぐる最新動向
借地借家法第28条の条文構造
借地借家法第28条(建物賃貸借契約の更新拒絶等の要件)
建物の賃貸人による第二十六条第一項の通知又は建物の賃貸借の解約の申入れは、建物の賃貸人及び賃借人(転借人を含む。以下この条において同じ。)が建物の使用を必要とする事情のほか、建物の賃貸借に関する従前の経過、建物の利用状況及び建物の現況並びに建物の賃貸人が建物の明渡しの条件として又は建物の明渡しと引換えに建物の賃借人に対して財産上の給付をする旨の申出をした場合におけるその申出を考慮して、正当の事由があると認められる場合でなければ、することができない。
条文上、正当事由の判断は以下の要素を総合考慮する構造になっている。
- 主たる要素:賃貸人・賃借人双方の「建物の使用を必要とする事情」
- 従たる要素(補完的要素):①賃貸借の従前の経過、②建物の利用状況、③建物の現況
- 補充的要素:立退料等の財産上の給付の申出

報告書が明らかにした令和期の判断傾向
法務省報告書の分析結果から、以下の重要な傾向が読み取れる。
(1)明渡し認容率は約53.3%
対象137件のうち正当事由が認められたのは73件(約53.3%)であり、ほぼ半々の結果となった。これは、賃貸人側が訴訟に踏み切ったとしても、約半数は明渡しが認められないリスクがあることを示している。投資用不動産の出口戦略として「訴訟による明渡し」を安易に前提とすることの危険性が数字で裏付けられた形である。
(2)「建替えの必要性」が最大の争点
報告書によれば、対象裁判例の半数を超えるケースで賃貸人側の事情として「建替えの必要性」が主張されている。建物の老朽化に加え、耐震性能の不足を理由とする建替えの主張が顕著に増加している。これは、2011年の東日本大震災以降、耐震診断の普及と社会的関心の高まりを反映したものといえる。
ただし、耐震不足のみをもって直ちに正当事由が認められるわけではない。裁判所は、耐震補強工事の可否・費用、建物の残存耐用年数、賃借人の移転困難性などを総合的に勘案しており、「耐震不足=正当事由あり」という単純な図式にはなっていない。
(3)居住用と事業用の差異
明渡しが認められた73件中、居住用建物は26件(約35.6%)にとどまった。居住用賃貸借では、賃借人の居住権保護が重視される傾向が強く、特に高齢者や低所得者が賃借人である場合には、賃貸人側の事情がかなり強くなければ明渡しは認められにくい。一方、事業用賃貸借では、代替物件の確保が比較的容易であることや、営業補償を含む立退料による経済的調整が行いやすいことから、明渡しが認容される割合が相対的に高い傾向が見られる。
(4)立退料の補充的機能
立退料は、条文上あくまで「補充的要素」に位置づけられている。最高裁昭和46年11月25日判決(民集25巻8号1343頁)以来、立退料は正当事由の不足を補完する機能を有するとされてきた。報告書の分析でも、立退料の提供なしに正当事由が認められたケースと、立退料の提供によって正当事由が補完されたケースの双方が確認されている。
重要なのは、立退料の金額に明確な算定基準がないことである。報告書も「立退料の基準・算定方法・目安等を示すこと」の困難さに言及しており、個別事案ごとの裁判所の裁量に委ねられている状況は令和期も変わっていない。実務上は、賃借人の移転費用、営業損失(事業用の場合)、借家権価格などを積み上げて算定することが一般的である。
関連する重要判例
正当事由の判断に関しては、以下の判例が依然として実務上の基本枠組みを提供している。
- 最判昭和46年11月25日(民集25巻8号1343頁):立退料の申出が正当事由の補完要素であることを明示した判例。解約申入れ後の立退料増額申出も、事実審の口頭弁論終結時までに行えば考慮される。
- 最判平成3年3月22日(判時1387号60頁):耐震性を含む建物の安全性が正当事由の考慮要素となることを示唆した判例。
- 東京地判令和3年9月17日等、令和期の下級審裁判例:耐震診断結果(Is値0.3未満等)を重視しつつも、補強工事の可能性や賃借人側の事情を慎重に衡量する傾向。
借地借家法第26条・第27条との関係
借地借家法第26条第1項:建物の賃貸借について期間の定めがある場合において、当事者が期間の満了の一年前から六月前までの間に相手方に対して更新をしない旨の通知又は条件を変更しなければ更新をしない旨の通知をしなかったときは、従前の契約と同一の条件で契約を更新したものとみなす。(以下略)
借地借家法第27条第1項:建物の賃貸人が賃貸借の解約の申入れをした場合においては、建物の賃貸借は、解約の申入れの日から六月を経過することによって終了する。
期間の定めがある場合は第26条の更新拒絶通知、期間の定めがない場合は第27条の解約申入れという手続的な枠組みの違いがあるが、いずれの場合も第28条の正当事由が必要とされる点は共通である。実務上、通知の時期や方式の瑕疵により、正当事由の判断以前に更新拒絶が無効とされるケースもあるため、手続面の遵守も極めて重要である。

宅建業法改正との交錯──重要事項説明の充実と紛争予防
デジタル化改正の実務的影響
2022年5月施行の宅地建物取引業法改正により、重要事項説明書(35条書面)および契約書(37条書面)の電磁的方法による交付が可能となった(宅建業法第35条第8項、第37条第4項)。これにより、IT重説(テレビ会議等を利用したオンライン重要事項説明)と電子書面交付を組み合わせた完全オンライン取引が制度的に実現した。
ただし、電磁的方法による交付には相手方の事前承諾が必要であり(同法第35条第8項)、承諾なく一方的に送付しても法的な「交付」とは認められない。また、事業用定期借地権の設定契約(借地借家法第23条)は公正証書によることが要件とされており、電子化の対象外である点に留意が必要である。
宅建士の責務強化と正当事由紛争の予防
平成26年改正(平成27年4月1日施行)による宅地建物取引士への名称変更に伴い、宅建業法第15条(業務処理の原則)、第15条の2(信用失墜行為の禁止)、第15条の3(知識及び能力の維持向上)が新設された。これらの規定は、宅建士が「取引の専門家」として消費者保護と円滑な不動産流通に資する責務を負うことを明文化したものである。
正当事由をめぐる紛争の多くは、契約締結時の説明不足に端を発する。たとえば、築年数の古い賃貸物件の仲介において、耐震診断の結果や賃貸人の将来的な建替え計画について十分な説明がなされていなかった場合、賃借人が「そのような事情は聞いていない」として明渡しに強く抵抗するケースは少なくない。
宅建業法第35条第1項に基づく重要事項説明では、建物の構造耐力上主要な部分等の状況(いわゆるインスペクション結果)の告知が既に義務化されている(同条第1項第6号の2ロ)。さらに、国土交通省の「宅地建物取引業法の解釈・運用の考え方」においても、物件の将来的な利用制限や建替え計画など、取引の判断に重要な影響を及ぼす事項については積極的に説明することが求められている。
媒介契約と情報提供義務
宅建業法第34条の2に基づく媒介契約の締結に際しては、専属専任媒介・専任媒介・一般媒介の相違を十分に説明し、依頼者の意思を確認する必要がある。賃貸人が将来的な明渡しを見据えて物件を売却する場合、媒介業者は正当事由の見通しや立退料の概算、建物の耐震性能などの情報を提供することが実務上望ましい。この情報提供が不十分であった場合、媒介業者の説明義務違反として損害賠償責任が問われるリスクもある。
投資家・実務家への影響──具体的なアクションポイント
不動産投資家が取るべきアクション
- 耐震診断の実施と記録化:旧耐震基準の賃貸物件を保有している場合、耐震診断を速やかに実施し、結果を書面で保存する。Is値が0.6未満(「倒壊する危険性がある」又は「倒壊する危険性が高い」に相当)であれば、将来の明渡し訴訟において有力な証拠となるが、それだけでは不十分であることを認識しておく必要がある。
- 定期借家契約への切替え検討:借地借家法第38条の定期建物賃貸借を活用すれば、契約期間の満了によって確定的に契約が終了するため、正当事由の問題を回避できる。新規入居者との契約はもちろん、既存借家人との合意による切替え(再契約)も選択肢として検討すべきである。ただし、既存の普通借家契約を一方的に定期借家契約に変更することはできない点に注意が必要である。
- 立退料の原資確保:報告書の分析が示すとおり、正当事由が微妙なケースでは立退料の提供が決定的な補完要素となる。建替え計画を立てる段階で、立退料の概算(一般に賃料の6ヶ月〜2年分程度が目安とされるが、事案により大きく異なる)を資金計画に織り込んでおくことが望ましい。
- 相続との連動:相続により取得した賃貸不動産については、相続税の取得費加算特例(租税特別措置法第39条、相続税の申告期限の翌日から3年以内に譲渡した場合に適用)を活用した売却のタイミングと、明渡し訴訟のスケジュールとの整合を図る必要がある。小規模宅地等の特例(租税特別措置法第69条の4)の適用を受ける場合、貸付事業用宅地等として200㎡まで50%減額が受けられるが、相続後に賃借人を退去させてしまうと特例の適用要件を満たさなくなるリスクがある。

宅建士・不動産鑑定士が留意すべき事項
- 重要事項説明の充実:賃貸物件の仲介に際し、耐震診断の有無・結果、建物の築年数と残存耐用年数、賃貸人の建替え意向の有無などを可能な範囲で説明に盛り込む。宅建業法第47条第1号の「重要な事項」の不告知に該当しないよう、慎重な対応が求められる。
- 借家権価格の評価:不動産鑑定士にとっては、立退料の算定に関連する借家権価格の評価が重要な業務領域となる。不動産鑑定評価基準における借家権の評価手法(差額賃料の資本還元法、割合法等)を理解し、訴訟における鑑定意見書の作成に備えることが求められる。
弁護士・司法書士が押さえるべきポイント
- 訴訟戦略の構築:賃貸人側の代理人として明渡し訴訟に臨む場合、単に「建物が古い」「耐震性がない」と主張するだけでは不十分である。報告書の分析が示すように、裁判所は賃借人側の事情(使用の必要性、移転困難性、年齢・健康状態など)を相当程度重視する。賃貸人側の建替え計画の具体性(設計図面の有無、建築確認申請の準備状況、資金計画など)も重要な考慮要素となる。
- 立退料の段階的提示:前掲最判昭和46年11月25日の法理に基づき、訴訟の口頭弁論終結時までに立退料の増額申出が可能である。初期段階では控えめな金額を提示し、訴訟の進行に応じて増額するという戦略的なアプローチも考えられるが、早期和解を目指すのであれば初期段階から相当額を提示する方が合理的な場合もある。
- 民法との交錯:被保佐人が賃借人である場合、賃貸借契約の合意解除には保佐人の同意が必要である(民法第13条第1項第3号「不動産その他重要な財産に関する権利の得喪を目的とする行為」に該当)。成年後見制度が関与するケースでは、手続面での瑕疵がないよう特に注意が必要である。
まとめ・今後の展望──法制審議会の動向と市場への影響
法務省の報告書は、令和期の借家正当事由裁判例137件を体系的に分析した画期的な資料である。明渡し認容率約53.3%という数字は、賃貸人・賃借人双方にとって「勝てるかどうかわからない」訴訟の実態を如実に物語っている。
今後の注目点は、法制審議会においてこの報告書がどのように議論の基礎として活用されるかである。正当事由の判断基準が立法的に明確化される可能性、たとえば耐震不足を正当事由の推定事由とするような改正が行われれば、老朽化マンションの建替え促進に大きなインパクトを与えるだろう。一方で、借家人保護の観点から慎重論も根強く、改正の方向性は流動的である。
不動産投資家にとっては、正当事由の不確実性を前提としたリスク管理が不可欠である。定期借家契約の活用、耐震診断の早期実施、立退料の原資確保といった具体的な対策を講じるとともに、宅建業法改正によるデジタル化の恩恵を活用して契約管理の効率化を図ることが求められる。実務家としては、法務省報告書の詳細な分析結果を自身の案件に引きつけて読み解き、訴訟戦略や紛争予防に活かしていただきたい。
借地借家法と宅建業法という二つの柱が交錯する領域は、今後も不動産実務の最前線であり続ける。最新の判例動向と制度改正をフォローし続けることが、プロフェッショナルとしての必須の姿勢である。


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